目次
- ご挨拶
- 形式についての前文
- 対称とする観客
- 創作をするヒト
- 政治を実践するヒト
- 批評を書くヒト
- 批評の戦略
- ねじれの位置
- 異化効果(Glitch主義)
- 工学主義
- ガチ主義
- 二元論
- PDCAサイクル早回し
- 批評の文体
- 批評の舞台
- 総論(内容についての前文)
- ポストモダン思想までの道のり
- ヘーゲル、主と奴の弁証法
- マルクスの読み替え
- レーニンの実践
- 新左翼の反抗
- ここまでのまとめ
- ポストモダン社会への論難
- 近代からポストモダンへ
- エリート・父性・理論の消失(グッバイ、レーニン!)
- 空気の支配(主客合一の境地)
- 主体・自己同一性・自己意識のフェイドアウト
- 有効需要不足社会と主体消失
- テクノロジーの進化と主体消失
- ポスト・ポストモダンへの試み
- ポスト・ポストモダン=ファシズム?
- 日本の思想家のポストモダン批判
- 私のポスト・ポストモダンへの提案
- 開かれつつ閉じる系(system)としてのオートポエティック・システム(自己産出系)
- 理念の進化(Ideenevolution)
- ヘーゲル二元論を超えて ニーチェ「悲劇の誕生」における三幅対
- 結局、なにをなすべきか?
ご挨拶
はっきり言って、まったく間に合っていない文章を世に出してしまった自覚があります。足りない準備期間で十分「よめばわかる」文章にはならなかったかもしれません。浅学非才の私ですが、目の付け所だけは自身があります。どうにか、どうにか、読んで、足りない部分はご自身で補って補って、いつか文章にして世に問うていただければ幸いです。
批評というジャンルで出店させていただきましたが、具体的な事物についての言明というよりは、これからどういう風に批評をしていくのか、今号はその意気込み表明にとどまっています。そこで今号は「よめばわかるくん vol.0」としてナンバリングいたしました。
形式についての前文
まず、この批評誌?雑文?を書くにあたって連載するにあたって、全体の見通しを立てたい。プロジェクトを立てたい。なんとなれば、これから私は自分の頭のなかで思っていることを書かれた文章にするという異常行動をするンであって、世間様から後ろ指をさされた際にもどうにか志操を枉げずに貫き通したいからである。剛直を打ち立てたいからである。いつかはヘーゲルやルーマンのような体系を打ち立てたいという欲望、あります。
対象とする観客
演劇の三要素といえば、①役者・観客・舞台と②役者・観客・台本の二説があるが、私は①の舞台説をとる。ポストモダン思想をかじったものの端くれとして、出来事が事前に書き込まれたテキストよりも出来事が起こる場のほうを重視すべきとする立場をとるからだ。ここにおいて、台本、つまり「なにをするか」・批評の対象としてなにをとるか、よりも誰を観客として想定するか、のほうが優先される。批評のいち戯作家としては、観客から逆算して演目を決めたい。ということで、想定する観客を挙げる
創作をするヒト
理論は実践を前提としてこそ意味がある。批評それ自体はなにも生み出さないが、批評の影響を受けて実社会へと創作物が生まれることもある。そして、実践を前提としない理論は接地を失った記号がフワフワ漂うだけになってしまう。批評を目的とした批評はしません。最終、米津玄師とかに読まれるといいな。
政治を実践するヒト
実践の最たるものは実社会の構造それ自体の維持・変革を目的とした政治活動だろう。私個人としては創作はあれもこれもといえるけど、政治は二者択一のどちらかを決断しなければいけないという点でよりリアルな理論が求められるため、政治か創作かでいえば政治を軸に批評をしたい。
批評を書くヒト
ヒト一人が世界のすべてを記述しきることはできない。だから、これはとても傲慢なことかもしれないが、批評を書くヒトは、私が書いた文章に影響を受けて、その線で書いてほしい。まだ批評を書いていないヒトは、私の書いた文章に影響を受けて批評を書いてほしい。私自身が拡張された気になるから。冗談はともかくとしても、やっぱり、業界内視聴率が高い番組でありたい。
批評の戦略
劇作家として批評の対象、というよりも戯作家として批評の戦略を明確にしたい。対象は語りうるものすべてだが、その語り口や、着目の仕方に個性を、比較的優位性を出していきたい。
ねじれの位置
Aでも反Aでもない、その軸上にないものを出してくることによって、AかAでないかという軸自体をズらしたい。広義の脱構築ってことなんスかね。
例えば:
- 東京ー京阪神 都会ー地方 に対する名古屋
- 東洋ー西洋 に対する「日本(日出ずる処)からみればハワイ以外全部 Abendland(日没する処)」
- 閉鎖系ー開放系 に対する 低エントロピー系
異化効果(Glitch主義)
私にとって批評とは物事について違った見方を提供することによって、ヒトの価値観や世界観をよりいい感じにして、社会をよりいい感じにすることを目的とするものだ。だから、敢えて、批評の対象とは距離をとらなければいけない。対象に対する没入ではなく、反省(reflection)が働くための距離をとる。私も含めてヒトは自分がいまなにをやっているのか理解していない。冷静になってみれば、文化はすべて意味不明な異常行動であり、小説はウソ八百を延々書き連ねているし、ダンスは音に合わせて奇妙な動きをしているだけだし、ボイパも口で出ない音をわざわざ口で出している。異常だ。社会的に認められていることと認められていないことの線引きはかなり恣意的で歴史的で意味不明なものだ。そのありえなさを鮮やかに剔抉すること、目からウロコを落とさせることこそ私が批評に求めることだ。だから、ブレヒトの異化効果を念頭に置いて書く。現実の外部からのキラキラを現実にもたらすことをしたい。
工学主義
私にとって批評は目的か手段かで言えば目的だが、外部への明確な目的のない事業は腐る。非営利団体より営利企業のほうがよい仕事ができたりする。だから、批評は狙いを定めて効果を最大化するように書く。そういった意味においては、私の書く文章は文学というよりも工学的であるだろう。
加えて、工学は物理的な対象をコントロールして、人間の都合の良いように働かせるための学問であるが、人間の意識と没関係にある物理対象を明確な目的意識でもって対峙するという点で、ものすごくリアルな学問である。観測者側の価値観の変化によって結果が変わることのないという「客観性」があるという意味においてむしろ批評を拒むものともいえるかもしれない。しかし、そういった「客観性」「ガチness」こそ揺るがぬ批評がベースにすべき地盤であると私は考える。
社会は生産力と生産関係の発展や矛盾によって進化するという、唯物論的な見方はむしろ、プラットフォームや商品流通過程こそが流通されるものの内容を規定する現代のプラットフォーム資本主義・グローバル資本主義を解析する重要な道具となるだろう。
ガチ主義
エマニュエル・トッドはGDPは誤魔化しやすいが、乳幼児死亡率は誤魔化せない、という視点からソビエト連邦の崩壊を予見した。これに倣って、粉飾されやすい言説とされにくい言説、粉飾するモチベがある言説とモチベのない言説、先入見が入り込みやすい言説と入り込みにくい言説を峻別していきたい。客観性の基準といってもいい。
誰かの苦しみはガチだが、その解決策はガチではない。
家の床面積が広いのはガチだが、家の内装がおしゃれなのはガチではない。
地域の祭りが町内会で継承されているのはガチだが、ある地域の文化のあるなしはガチではない。
生産はガチだが、消費はガチではない。
BtoBはガチだが、BtoCはガチではない。
しょうもないとされていることはガチだが、クールだとされていることはガチではない。
裏方はガチだが、主役はガチではない。
実践はガチだが、理論はガチではない。
現場はガチだが、会議室はガチではない。
二次産業はガチだが、三次産業はガチではない。
製品はガチだが、広告はガチではない。
物質はガチだが、情報はガチではない。
二元論
二元論は確かに乱暴な議論の仕方だ。しかし、人間はあるものとそれ以外を区別することによって世界を認識しているから、二元論は人間や記号にとって本質的なものの見方だ。それが絶対のものだとは思わないし、区別の仕方それ自体が恣意的であることの疑いは晴れることがないが、二元論に従った文章は要旨がはっきりするし、二元の矛盾こそが文章を前進させる原動力となる。原始的だが、射程と使い道の広いパワフルな道具でゴリゴリ解釈していきたい。
PDCAサイクル早回し
どうせ、ちゃんとした文章は書けないし、私にそれは求められていないし、読めなきゃAIにでも要約してもらえればいいのだから、とにかくいい感じの思いつきがあれば世に問うてみて、反響は確認しつつ、バシバシ上手い批評家になっていければいいかなと思っている。
アイデア出し、ブレインストーミングのために書いているから、本質でない細かい事項はAIにやってもらうのが良かろう。
批評の文体
文体によってかける文章の形態は変わってくる。堅牢な構造をもった文章は深くまで掘れるが、書きづらいし、そもそも書くのがめんどくさくなってしまう。いまの私に文章能力があまりないことは明白な事実であるから、まずは雑な文章からleanに始めて、徐々に堅牢な文体に移行していきたい。
私は何についてでも書きたいから、ワークマンのように安くて、ラフで、破れにくい、しっかりした、これでええやん式の、文体を身につけたい。そして、ガチな文章を書きたい。
文体に対するフェティッシュはあるけども、それを身につけるのは今ではないし、そのフェティッシュの故にあるタイプの事柄についてしか書けないのであれば、本末転倒だ。
さらにいえば、私小説的な文体というのがある、自分自身の半径10mくらいの物事を、日常を慈しむような文体のことだ。これを私は意識的に退けるか、その文体を身につけるとしても、そのことを明白に意識した上で書きたい。ややもすれば、そのような文体は無条件の現状肯定となりかねないし、ある種のナルシシズムを呼び込みかねないからだ。リアルな自画像から、虚偽の自分自身への思い上がりを守るために書くものの自由度を下げたくない。もちろん、すばらしいエッセイは日常のちょっとした出来事にノイズを見出し、個別具体的な物事から普遍的真理を創造するものである。しかし、私はいまだその域に到達していないと私自身を見る。
カフェで読まれない文章、むしろ工場で読まれて実践されるような、この世の取り扱い説明書のようなものを書きたい。
漢文を意識して書く。漢語は陰陽じゃないけれど、横文字に比べて二元論がわかりやすい。そもそも、日本語の書き言葉は漢文のスピンオフから始まったのであるから、翻訳調の文章よりも文語文のほうが日本語の古層に眠った力を、つまり言語本来の論理構成能力を活かせるのではないだろうか。小手先ではなくて、日本語の足腰を活用しようということだ。さらに、東アジアの他国の経済力が向上するとともに、東アジアの一国としての日本という側面が目立つようになってきた。東アジアの共通言語は漢籍の素養。孔孟や老荘の枠組みで我々がなんであるか記述できたら大きな意味があるのではないか。
結局、最終、よんでわかればそれでええねん。必要十分じゃ。
批評の舞台
メディアのこと。いまのところは文学フリマに出す紙媒体と、よめばわかるくんのwebサイトでの公開しか考えていない。web媒体にすると年数回ではなくその場で反響が(帰ってくるかも)しれないから、PDCAサイクルを早く回すアジャイル批評開発にはうってつけだ。
総論(内容についての前文)
ポストモダン思想までの道のり
えー、最近、世の中がおかしくなっている。世相が悪い!
トランプはワヤ、プーチンはプッチン。お隣・韓国の政治もどうなるかわからないし、イスラエルもガザへの攻撃を続けている。
ジャニーズ、フジテレビ、吉本……芸能界もワヤだ。
これまで敬意を集めていた様々な分野のトップがバグった言動を続けているように私には思える。そして、その狂いが同時多発的に現象したことは、偶然そのトップに選ばれた人物がワヤだったからではなく、狂いがシステムの構造に埋め込まれた必然であったことを証しているのではないだろうか。
人物ではなく構造にこそ病巣があるとするなら、即ち徳治でなく法治的な社会の捉え方をするなら、私たちの目指すべきは現有の法の教化というよりもむしろ新たな法の制定であり、その法の論理的裏打ちをする理論・思想をつくりだすことだ。
現有の法を支える理論はなにか。それは資本主義や民主主義といったものだろうけれど、どうにも敵として心もとない。というのも、資本主義や民主主義はファシズムや共産主義といった他の諸主義に対して「主義らない」ことにその特徴があるようで、私が眼を凝らせば凝らすほど滲んだりぼやけたりしてよくわからなくなる。有識者によってそのイメージも異なる。まるで一つの、いや複数の幽霊が人々の頭の上を徘徊しているようなものである。
ルイージマンションにおいてルイージが掴むのはオバケではなくて掃除機である。だから、私たちも資本主義・民主主義のことはひとまず措いておいて、ファシズム……も一旦措いて、資本主義の対立物・オルタナティブな思想としての共産主義について考えてみよう。
現有の秩序に異議申し立てをする思想のなかでも老舗なのが共産主義だ。マルクス以前にも共産主義的思想はあったが、現代の私たちが共産主義として思い浮かべるのはマルクス主義だろう。
私の見立てでは、マルクス主義の骨子はヘーゲルが「精神現象学」のなかで示した「主と奴の弁証法」であり、マルクスの独創性は「主と奴の弁証法」を「資本家が労働者に打倒される革命」と読み替えることによって、自身の革命思想に説得力を持たせた点にある。
ヘーゲル、主と奴の弁証法
それでは、主と奴の弁証法とはなにか。それはヘーゲルが構想した一つのモデルである。
想像してみよう。
奴隷は主人のために働き、主人は労働することなくその成果を享受する。その代わり、主人は成果を評価し(=承認し)、奴隷の労働に意味を与える。
「人」という漢字の二画が支え合うように、主人は奴隷の労働なしには存立できず、奴隷は主人の承認なしには存立できない。しかし、この関係は対称でも安定でもない。
奴隷は労働の過程で現実の対象に直接向き合うが、主人は成果物を通してしか間接的に現実と接しない。そのため、やがて主人の承認は地に足のつかない空論となり、奴隷の労働に意味を与えられなくなる。
矛盾が決定的になったとき、奴隷はもはや主人を必要とせず、この関係はもはや無効となる。(止揚される)
KAT-TUNふうにいえば 「ギリギリでいつも生きてい」るから → 「リアルを手に入れる」 → 「さぁ 思いっきりブチ破ろう」 みたいな。
このモデルの適用範囲は広い。社会の主流的な価値観に異議を申し立てる人びとは、無意識のうちにこのヘーゲルの枠組みに頼っていることが少なくない。
要点はシンプルだ。「主」と「奴」という二項対立を見いだし、「主」を優位に、「奴」を劣位に配置する。「主」はえらく、「奴」はダサい──言い換えれば「マジョリティ」と「マイノリティ」だ。
具体例を挙げれば、
- 主体と客体
- トップダウンとボトムアップ
- 意識と肉体
- 文明と自然
- 聖と俗
- 監督と役者
- 資本家と労働者
- 高学歴エリートとブルーカラー労働者
- 東京と地方
- 先進国と途上国
- 西洋と東洋
- 白人と黒人
- 男と女
- 会議室と現場
- アースノイドとスペースノイド
- 後醍醐帝と足利尊氏
いずれも同じ構図に収まる。
マルクスの読み替え
ヘーゲルによれば、主人の承認に依存しなくなった奴隷には思考の自由、即ち内面的な自立が生まれるが、外面的には奴隷は主人のための労働に隷属したままであり、その内面の自立と外面の隷属という矛盾が奴隷の自己意識を発展させ、主と奴の二項対立という形式それ自体を止揚し次のステージに進む契機となる。このように矛盾と疎外を経験しながらも、その都度それを乗り越え進んでゆく主体こそが、ヘーゲルが精神と呼んだものである。
たほう、マルクスは、産業革命期における労働者(=奴)の悲惨な境遇を実際に改善することを信条とする革命家として、自己意識(=精神)の発展こそを歴史の駆動因をみるヘーゲルの歴史哲学を、地に足のついていない、まるで頭で立っているかの如き観念論として唾棄し、もっと地に足のついた物質的な物事に立脚した、即ち唯物論に基づいた歴史観(史的唯物論)から歴史を捉えるべきだとした。彼は主 – 奴の関係を資本家 – 労働者の関係へと置き換え、承認の奪い合いではなく剰余価値の搾取こそが矛盾の核心だと捉えた。
しかし、私からみれば、生産力の発展とそれに適合しなくなった生産関係との矛盾によって歴史を説明する「史的唯物論」の構造は、(生産力+生産関係)が自己展開しながら発展し、やがて階級なき社会という帰着点に到達するという構造は、精神の自己展開によって歴史を説明し、その帰着点として絶対知を置くヘーゲルの歴史哲学の構造と同型である。(生産力+生産関係)はやはり広義の精神にほかならないのではないか?そもそも唯物論なら歴史の目的という概念そのものを捨て去らねばならないのではないか?その観点からみれば、マルクスもまた彼自身が主張するような個別具体的な物質を歴史の駆動因とする唯物論者ではなく、抽象的イデ(=観念)に導かれる観念論者と呼ばれるべきではないだろうか。
私がここで主張したいのは、彼自身の宣伝とは違って、マルクスはヘーゲルを乗り越えておらず、むしろその重力圏内にとどまっている、包含関係にあるということである。そしてマルクス主義を否定するならば、彼の錯綜した文章群を相手とするのではなく、体系的にまとまったヘーゲル哲学を否定するほうが根底的かつ早道ではないだろうか、ということである。
レーニンの実践
レーニンはマルクスが理論として描いた社会主義を、史上初めて現実制度へと刻印した人物である。しかし彼はマルクスの教義をそのまま踏襲したわけではない。レーニン主義の核心は「民衆に寄り添うが、民衆の言いなりにはならない」という立場にあり、芥川竜之介が詠んだ
「誰よりも民衆を愛した君は 誰よりも民衆を軽蔑した君だ。」
という一節は、その二面性を鮮やかに切り取っている。
マルクスは、労働者階級が自発的に革命へと決起すると考えた。レーニンはこれを退け、階級闘争の外部に位置する知識人が「革命的意識」を注入しなければ民衆は立ち上がらないと論じた(外部注入論)。その役割を担う組織が前衛党であり、ナロードニキの「ヴ・ナロード(民衆の中へ)運動」が挫折した経験を踏まえ、「民衆の中へ」ではなく「民衆の上から」意識を植え付ける方法へと転換したとも言える。
ヘーゲル→マルクス→レーニンの流れを並べると、マルクスがヘーゲルを唯物論へと地上に引き戻したのに対し、レーニンは再び高所へと引き上げた、という逆コースが見えてくる。
レーニンは、労働者=奴の「リアル」を出発点とするマルクスの唯物論的姿勢をいったん棚上げし、“高い視座”を持った知識人が民衆に「真の意識」を植え付けるというトップダウンの革命モデルを提示した。この大胆な反転こそが、レーニンの独創であり、マルクス=レーニン主義と一括りにされがちな思想に潜む決定的な違いである。
そしてこのトップダウンモデルこそスターリン主義の温床となり、中央集権的な計画経済、党による真理の独占を支える検閲・粛清、さらには衛星国への武力介入を正当化する理屈を準備した、すべての元凶である。
新左翼の反抗
すべての元凶たるトップダウンモデルに真っ向から反旗を翻したのが、1950年代半ば以降の新左翼である。彼らはスターリン批判やハンガリー動乱以後ソ連とその指令に従う自国の「共産党=前衛」の権威を疑い、水平的で自律的な運動形態を掲げた。
- フランス五月革命(1968)では、学生と労働者がソビエト式政党を素通りし、職場・大学を“占拠”という実践で接続した。
- 日本の全共闘は、大学封鎖と自己管理を通じて、「組織よりも直接行動」を選び取った。
理論的転回――“前衛”から“オートノミー”へ
新左翼はレーニン主義を
- 国家資本主義(左派共産主義)
- 官僚独裁(トロツキズム) ――と断じ、マルクスの原点「自己解放」に立ち返る。議会や党中央ではなく、評議会(ソビエト)・コミューン・ワーカーズコントロールといった“場”を軸に、生活‐生産の現場で秩序を再構築しようとした。
そしてそのボトムアップなリベラリズムを理論づけたのがポストモダン思想である。(ポストモダン思想はその多くを反ヘーゲル・反経験主義思想家としてのニーチェに負っている)
運動の限界と遺産
もっとも、水平性は脆さと背中合わせだった。分散型ゆえに統一戦略を欠き、国策・警察の弾圧や内部対立で多くの組織が瓦解する。それでも、
- フェミニズムやエコロジー運動のセルフオーガナイズ、
- オキュパイ運動や気候正義運動のアセンブリ型意思決定、
といった今日の“オートノミー(自治)”志向は、新左翼の試行錯誤を継承している。
レーニンが編んだトップダウンの「赤い鎧」は、スターリン下で硬直し、ついにはソ連崩壊へと行き着いた。その廃墟の上で、新左翼は「誰かに導かれる革命」ではなく、「自らの手で作る日常的変革」へとパラダイムをずらした――それが二十世紀後半のもう一つの遺産である。
ここまでのまとめ
思想家 | ヘーゲル | マルクス | レーニン | 新左翼 |
---|---|---|---|---|
トップorボトム | トップダウン | ボトムアップ | トップダウン | ボトムアップ |
歴史の駆動因 | 精神 | 労働者 | 前衛党 | 個性 |
ポストモダン社会への論難
近代からポストモダンへ
新左翼はひたすらに「党」を、即ちトップダウンを、主体を、権力を、”唯一絶対の真理”を、批判した。それはまさにエリートの自己否定として始まった。そしてある者は真理の複数性・多様性を根拠に、労働者階級以外の被抑圧集団、即ち社会の周縁部に位置するマイノリティ集団の救済へと向かうポストモダン・リベラル(ポモ左翼)に、そしてある者は価値観の共約不可能性を、つまり前者と実質的に同じものを根拠に、日常生活に対する国家の介入を拒否するネオ・リベラリズム(新自由主義)へと向かっていった。そして現代のなんでもボトムアップを是とするポストモダン社会へとつながるのである。
しかし、ポストモダンにおける左翼運動 \simeq 弱者救済運動はとても難しい。というのも、ポストモダン思想は反・前衛党から始まるが、前衛党は労働者階級の利益を代理・代表(レペゼン)する知識人集団であるから、ポストモダン思想は当然、反・代表主義となる。だからポストモダン思想に誠実な知識人は弱者の声をを代弁することを禁欲しなければならない。その声は弱者自身が上げなければならないのだ。そして上げられた声に知識人は従わなければならない。知識人が真理を独占しているわけではないからである。
美しい言い方をするなら、「ひと(知識人を降りた知識人)は誰一人として他の人を代表・代弁・代理・代行できない。なぜなら、一人ひとりがかけがえのない個性(真理の複数性)だから」ということであるし、「ひと(知識人を降りた知識人)は一人ひとりの声なき声を聞かなければならない。なぜなら、自分が他の人よりも正しいことを知っているわけではないから」ということでもある。
まるで「世界で一つだけの花」のような世界観である。
これは文学フリマ的でもある。文学フリマというのは、自治によって運営される生活者ひとりひとりの声なき声を発表する場だからだ。
そして、そういったボトムアップの、中心の司令塔のない構造というのは、資本主義社会や民主主義社会やインターネットの構造にほかならない。だからポストモダン思想というのはモダン社会からポストモダン社会へのドラスティックな社会変化に随伴した思想であるといえる。
しかし、ポストモダン社会には多くの副作用がある。みていこう。
エリート・父性・理論の消失(グッバイ、レーニン!)
反代理主義において、エリートは民衆を嚮導する責任感がなくなる。エリートがエリートとして責任をとること、即ち民衆の代理をすることもまた暴力行為だからだ。主体性・父性の消失といってもよいだろう。だからエリートは倫理的に政治から身を引かざるを得ない。たとえ公僕であっても公的決定には常に世論の承認が必要となる。この倫理的態度は責任逃れと紙一重である。
そもそもエリートが懺悔道的に自己否定したおかげで、日本社会には大衆に対する責任意識がある自律した集団がいなくなってしまった。教授会・学術会議は解体されるし、官僚は政治主導が進んで政治家=「大衆の化身」に叱責される状況が続いているし。
ポストモダン思想を内面化すると、優しさと引き換えに決断力を欠く人間が生まれる。イデオロギー否定を唱えるその姿勢は、結局は資本主義や民主主義に回収され、「空気の支配」へと帰着する。まるで漢意を排した惟神の道によって近代の超克(ポストモダン)を図るようだ。
かつて影響力を持ったのは、かっちりした本棚を背にした一人の成人男性(大学教授)であったのが、いまやその対極、ファンシーグッズで溢れる部屋に集う複数の子どもの女性(アイドル)に変化した。
理論の自己否定という構造は禅問答に似ており、ポストモダン思想の本場であるフランス語の見かけ上の難解さも手伝って“父性”を求めるエリートやカルチャー層を惹きつける――という皮肉な循環が続いている。
そして、全世界を獲得する射程を持つ理論が崩壊した、つまりバベルの塔が崩壊したあとでは、共通言語が消失し、たかだか語族レベルの家族的類似性が近い相手にしか言葉が通じなくなってしまった。ノリや価値観、つまり空気が近い相手としか会話が成立しなくなってしまった。これは大きな社会的不安をもたらす。隣人が怪物かもしれないからだ。
空気の支配(主客合一の境地)
真理を放棄するということは、依って立つ理論を放棄するということにほかならず、「主義らない主義」である資本主義や民主主義に対して距離を取れなくなることだ。大衆の世論=空気に対して理論が可能にしていた批判的な距離が取れなくなる。
SNSに瀰漫している新自由主義的な自己責任論とポストモダン左翼的な他者への無制限な共感は、ムラ社会として批判されてきた空気の支配を強化するものである。自己責任論は村八分の正当化(村の掟を破ったのだから悲惨な目にあうのは自業自得)を、「共感」は隣人への過干渉(不審者は放置せずブロックする)を深化させる。
新左翼は前衛党を否定して小規模な共同体の自治を称揚したが、空気支配が小規模共同体自治と結託すれば、場の空気に水をさすことが許されない、比喩ではなく真の意味でのムラ社会が出来上がる。ポストモダン左翼の小規模非営利共同体が多くの場合、資本主義を生きる営利企業よりも内部のメンバーに抑圧的な集団になるのはこういった機序があるのではないだろうか。
つまり、左翼は啓蒙によって、普遍的な理性によって、抑圧的なムラの掟からの開放を求めて旅を続けてきたが、「誰も傷つけてはならない」という掟を手にしたことで、ぐるり一周して、再び抑圧的なムラを自分の手で作り上げてしまったのではないか。「少しでも他人を脅かす奴は村八分にされる」というのはむしろ心理的安全性から一番遠いものである。
主体・自己同一性・自己意識のフェイドアウト
曖昧な欲望しか持てず
曖昧な欲望をもて余し
いつもおまえはテレビに釘付け
疲れ果てても止められない
おまえのからだはフェイド・アウト
消え入り果ててゆく -- INU フェイド・アウト
ポストモダン社会の欠点のうち私が最も深刻であると考えるのが「主体の消失」これである。エリートがいなくなることも空気の支配が全面化することもマクロなレベルでの問題であったが、社会からどうにか身を引いたり、オルタナティブな共同体を作れれば、それなりにやっていけるだろう。しかし、反「党」の思想が個人の意識レベルにまで引き写されると、身体が頭脳よりも、無意識が意識よりも、欲望が禁止よりも、気分が大義名分よりも、優越してしまう。その結果、ヒトは「我思う、ゆえに我あり」というデカルトのコギト、主体の自己同一性を支えるループを断ち切ってしまう。
主体の自己同一性を失ったヒトは何になるのだろうか?VtuberやSNSの複垢のように複数のペルソナ(人格=仮面)を使い分けることによってこの社会を生き延びていくのか?しかし、その社会適応も主体がバラバラになってしまえば、何のためにやっているのかもわからなくなってしまう。そして、社会適応それ自体が至上命題となってしまえば、社会構造の中で隷属状態に置かれても抵抗の足がかりを作れない(自己責任論)のではないか?
そして、人間から主体が無くなってしまえば、ヒトはどう責任を問えるのだろうか。個人を責任主体、行為主体とみなす法の根幹が揺らいでしまう。さらに、すべての行為をその場の空気によって左右される者はもはや合理的経済人とは呼べない。そういった意味で方法論的個人主義をベースとする現代の経済学の根幹もまた、揺らいでしまう。個人の自由な投票によって社会の方向を定める議会性民主主義もこれでは空気による衆愚政治に、ポピュリズムに堕してしまう。
文化・芸術・科学の分野においても悪影響は広がる。場の空気への適応を最大化した空気人間は要領はよくても、新たなアイデアを全体に付け加えることはできない。斬新なものは遠ざけられ、むしろ有職故実が蔓延るだろう。ここに社会の進化は停滞する。
有効需要不足社会と主体消失
さらに、資本主義社会の構造それ自体が主体の消失を加速させている。
先進国の市場は慢性的に有効需要が潜在的供給力を大きく下回っている。だから、合理的経済人には存在しない消費者の欲望を供給側が広告等で作り出す必要がある。つまり、広告とはある種の呪いであって、個人の経済人としての合理性を破壊するものである。合理的経済人から消費者へと頽落した個人は他者の欲望を欲望する(つまり空気に踊らされる)ようになり、果てにはキャパシティ以上の依存性のある快楽を与えられ、ジャンキーとして生産者としては使い物にならなくなるまで脱主体化されてしまう。
テクノロジーの進化と主体消失
ChatGPTなどのLLMは人間の神経系からアイデアを得たニューラルネットワークに大量のデータをぶち込んである種の確率計算的なコトをさせることによって振る舞いにおいても人間と遜色ない、むしろ人間を上回るような知性を示した。このことは、そもそも人間は「理性的」に思考しているのではなく、むしろ今までに吸収してきた文脈や空気を超高度に読むことによって思考しているのではないか、という疑いを私たちに抱かせる。我々固有の人格と思われたものは、これまでに外部から吹き込まれた空気に過ぎないのかもしれない。
イーロン・マスクは Neuralink という頭蓋に埋め込んで脳の電気信号を直接読み書きするI/Oデバイスを開発している。外部のデジタル機器を操作できるため、障害を抱えた人の助けになると説明されているが、インターネットに接続したりNeuralink 同士でコミュニケートするようになれば恐ろしいことになると私は疑う。他人の思考や脳内で扱えるキャパシティ以上の情報が脳内に流れ込めば、ガンダムにおけるニュータイプのように精神が不安定になり、果てには廃人になってしまうのではないだろうか。
ポスト・ポストモダンへの試み
父性=否定性の存在しないポストモダン社会というのは、トム・ブラウンの漫才で例えるならば、みちおが様々な芸能人に生成変化していく様を布川が「だめー」と抑圧せずニコニコ見守っているようなものだ。漫才は破綻し、みちおはあまりに多くの芸能人のキメラとなっていくことでエントロピーが絶えず増大し、最後には熱的死を迎えるだろう。
そのような未来は回避しなければならない。
もし、ポスト・ポストモダンがあるとしたらどのようなものになるだろうか?
ポスト・ポストモダン=ファシズム?
前掲の表のようにトップダウン優位とボトムアップ優位の交互の波があるならば、反動的だと呼ばれるかもしれないが、それは新たなトップダウン優位の思想だろう。ポスト・ポストモダンはレーニン主義への回帰になるのだろうか?
自称・革命家で(つまり革命家で)ファシストの外山恒一は「レーニンからマルクスを抜けばファシズムになる。」 とツイートしていたが、確かに衆愚から民主主義的な(自由主義的な)日常を守るために民主主義(自由主義)を停止させる旨であれば理解可能だ。
ファシズムはどのような社会思想であるかということについて、一言でまとめられるような定説はないが、私の解釈ではファシズムとは、「エリートのためのエリート主義」である。主体性拡張主義や”権力への意志”主義といってもいい。
ポストモダンの無気力が広がる社会のなかで、ビジネスパーソンの間で自己啓発本の形でエリートのためのエリート主義としてのファシズムが流行しているともいえる。
ただ、ファシズムもまた前世紀に沢山の人間を殺した思想であるから、まっすぐ採用することはできない。いや、シンプルにそれを認めるのが私は嫌なのもある。それに、ファシズムは戦争に敗れただけであって思想的敗北はしていないとの批判もあるが少なくともイベリア半島のは自壊している。ファシズムについては全体主義は環境の変化に柔軟に対応できないからダメ。くらいのことを言って次に進もうと思う。もし、テクノロジーとファシズムが一体となって、自由主義諸国よりも環境適応できるようになれば……次に進もうと思う。
日本の思想家のポストモダン批判
日本のポストモダン思想家と言われる人たちも、00年代まではベタに、ボトムアップ・「党」解体・「誰にでも開かれていること」を訴えるポストモダン思想を訴えていたように私には見えるが、10年代以降SNS時代に突入し、ボトムアップを訴えていた思想家が直に大衆の実態に触れたことによって、ボトムアップの無制限な称揚から距離を置くようになった。しかし、まったくのボトムアップでもまったくのトップダウンでもないもの、「開かれつつ閉じるもの」、いい加/減、ちょうどいい塩梅というのはなかなかしっかりとした理論として打ち立てにくいものである。
特に私が不満なのは、ちょうどいい塩梅それ自身を決定するプロセスが欠けていることである。確かにちょうどいい塩梅を決定する理論ができれば、それがまた新たなトップの理論に座ってしまうから、それはポストモダン思想への裏切りとなるだろう。そうはいっても、ちょうどいい塩梅こそ大事だ、というのはあまりにも「おばあちゃんの知恵袋」的で経験主義的ではないだろうか。理論以前への回帰ではなかろうか。悪くいえば「俗情との結託」そのものではないのか。そして若者は経験を積んでいないから、塩梅を知らない、だから年長者のいうことを聞きなさいよ式の、ベタな保守主義へと行き着いてしまうのではなかろうか。
私のポスト・ポストモダンへの提案
開かれつつ閉じる系(system)としてのオートポエティック・システム(自己産出系)
私はこのポストモダンの行き詰まりを乗り越えるのは社会学者ニコラス・ルーマンの提唱した社会システム理論ではないかと疑っている。
ルーマンのシステム理論では、無から生まれ、新陳代謝と環境適応によって自己の構造を保つ構造として生命、社会組織、意識を同一視する。
つまり、エントロピー増大則に逆らい続ける泡としての生命・社会組織・意識だ。
これらの自己産出する定常開放系は「開かれ」(開放系)つつ「閉じている」(定常・ホメオスタシス)。
というよりか、完全に閉じてしまった孤立系は熱的死を迎え(淀んだ水は腐る)、また完全に外部との境界が無い系もまた自己自身を維持できない(主体性の消失)
そして、このような自己産出系はボトムアップでありながら、「なんでもあり」というわけではなく、構造を維持するため、複雑性の縮減、反エントロピーという厳然たる方向性が存在する。
すごくわかりやすくいえば、人間の意識や企業などの社会組織をいのちとして扱おうよ、ということだ。いのちは、ご飯を食べるし水を飲むけど、毒や自分自身はちゃんと見分けて摂取しない。つまり環境を見分けて適応している。そして、外部から栄養を摂取し新陳代謝をすることによって、初めていのち内部の安定すなわち健康が得られるのである。つまり開かれつつ閉じていることによって、初めて長く自己連続性を保ったいのちとして生きられるのである。
この観点からすれば、「いい塩梅」というのは、拒食でも暴食でもない「中庸」である、といえる。確かにこれは、言葉の言い換えに過ぎないが、会社などの組織や自己の意識を生きているいのちとして扱うことによって、使える比喩が飛躍的に増えるのだ。我々人間は生きているし、生きているものと多く関わってきた。だから、生き物の比喩は多いし、身体的にわかりやすい。このことだけでも一歩前進といえるのではないだろうか。
余談だが、私は、外部を取り入れつつ自己を更新しながら連続性を保つ「動くもの」として、ヘーゲルの精神(Geist)をルーマンのオートポエティック・システムで置き換えることができるのではないか、と疑っている。ヘーゲルの体系の総論としての「精神現象学」とそこから流出した各論をルーマンの体系の総論としての「社会システム(或る普遍的理論の要綱)」と各論としての「社会の??」シリーズにルーマン自身対応付けていたのではないだろうか?この点において、もしかするとルーマンのシステム理論こそヘーゲル弁証法の無間地獄の外部へ続く蜘蛛の糸なのではないか?
理念の進化(Ideenevolution)
ヘーゲルのあの悪名高い「絶対精神」やマルクスの「階級なき社会」といった「歴史の終わり」。歴史はこれらの単一の終着地を目指すという「目的論的」な「発展」の概念。これに対して、意味も目的もないランダムな試行と気まぐれな自然選択によって複雑な組織が組み上がっていく「進化」をルーマンは重視した。
散種されたミームとしての理念・理論は人々やAIの意識を苗床として、突然変異を繰り返したり、自然淘汰を受けながら増殖していく。そしてこの「進化」は意味の外側にある。我々にはこれからの時代、どのようなミームが増殖していくのか、どのようなビジネスが当たるのか、正確に予測して計画することはできない。そして事後的にその道をなぞることで必然として、目的論的に説明できる。キリンは高いところの葉っぱを食べるために首を長くしたわけではないのだ。「ミネルヴァのフクロウは迫り来る黄昏と共にようやく飛び始める」というやつである。この時間に対する非対称性はどうやっても乗り越え不能だろう。生物は自分には無いものをもった子どもを作りつづけるほかないのだ。自分に持っているものしか持っていない子どもばかり作るなら、それは縮小再生産になってしまう。高等生物が莫大なコストを払って有性生殖をしている理由が、進化の推進にこそあるのだ。
ヘーゲル二元論を超えて ニーチェ「悲劇の誕生」における三幅対
以上説明したルーマンの概念装置は、エントロピーや進化といった熱力学・生物学の概念を哲学に導入していて、少々大掛かりだ。できれば、哲学の内部にあるものによってヘーゲルの地平の外側に出たい。そこでニーチェ「悲劇の誕生」における三幅対の概念を導入してみようかと思う。
アポロン | ディオニュソス | ソクラテス |
---|---|---|
個体化の原理 | 個体性の融解 | 知への楽観・反悲劇的 |
真理は我にあり | みんなが正しい | 我もみんなも真理を知らない |
トップダウン | ボトムアップ | 問答法 (dialectic) |
ニーチェは「悲劇の誕生」のなかにおいてアポロン・ディオニュソスという二元対を導入したのち、ソクラテス的なるものを第三項として挿入する。
まず、アポロン的なるものは「夢」と「個体化の原理」を担い、世界を形象化し、輪郭線を与える。これは主観を凝固させる力である。だがその静的な秩序は、ディオニュソス的な陶酔(境界の融解、集団的なエクスタシー)によって周期的に侵食される。ディオニュソスはエントロピー増大を肯定する側面を持ち、固定した主体や制度を溶かし、潜在的な多様性を表舞台へと押し上げる。二極間の戦いこそが芸術の特にギリシア悲劇の本質であるとみなした。ただし、ヘーゲルの弁証法とは違い、この二元対は止揚されることなく、どちらが勝利するこもなく永久に続くものである。
ところがニーチェは、この二極間の永久の戦い(ギリシア悲劇的世界観)の殺害者としての第三項としてソクラテス的なるものを投入した。ソクラテス的なるものは「知への楽観」と「問答法」によって悲劇的世界観を破壊し、アポロンvsディオニュソスの緊張自体を“理性”で乗り越えられるという幻想を持ち込むという。
私は昔から、(アポロンvsディオニュソス)vsソクラテスという三幅対が論理的に非対称で美しくないと考えていたが、ある日、真理を誰が保持しているか?という問いにおいて、その対称性が見えてくることに思い至った。
こう整理すると、三者は「真理の所在」をめぐって厳密に対称関係をなす。
- アポロンは「私が真理だ」と宣言し、世界に輪郭線を引く。
- ディオニュソスは「みんなが正しい」として輪郭線を溶かす。
- ソクラテスは「誰も知らない」と暴露し、輪郭線そのものを問いに開く。
したがって、三幅対は決して二項対立+αの“付け足し”ではなく、単数 – 多 – 零という三角形を成すといえる。
そして、ポストモダンの脱出口、ポストモダンに限らず、すべての行き詰まりの脱出口はソクラテス的な「無知の知」、私はなにも知らないし、誰もなにも知らないことを認め、対話から、主体と客体のズレから産婆のように、真理を取り上げていくしかないのだろう。これもまた、進化と同じく、偶然性・リアルとの戯れといえる。
結局、なにをなすべきか?
結局、以上ダラダラ書いてきた考えを踏まえ、私はなにをするべきなのだろうか。正直わからない。ただ、私はなんとか主義は信じられないが、進化の神を信じられる、だからとにかく種を撒いてみようかと思う。こんなよくわからない文章もドシドシ書く。よくわからないイベントもやる。ひとの想像力のエアポケットを突いて、ソクラテスのように人々の目から鱗を落とさせたい。礼儀ただしく変なコトをしていきたい。とりあえずそんなところだろうか。