まず、この批評誌?雑文?を書くにあたって連載するにあたって、全体の見通しを立てたい。プロジェクトを立てたい。なんとなれば、これから私は自分の頭のなかで思っていることを書かれた文章にするという異常行動をするンであって、世間様から後ろ指をさされた際にもどうにか志操を枉げずに貫き通したいからである。剛直を打ち立てたいからである。いつかはヘーゲルやルーマンのような体系を打ち立てたいという欲望、あります。
対象とする観客
演劇の三要素といえば、①役者・観客・舞台と②役者・観客・台本の二説があるが、私は①の舞台説をとる。ポストモダン思想をかじったものの端くれとして、出来事が事前に書き込まれたテキストよりも出来事が起こる場のほうを重視すべきとする立場をとるからだ。ここにおいて、台本、つまり「なにをするか」・批評の対象としてなにをとるか、よりも誰を観客として想定するか、のほうが優先される。批評のいち戯作家としては、観客から逆算して演目を決めたい。ということで、想定する観客を挙げる
創作をするヒト
理論は実践を前提としてこそ意味がある。批評それ自体はなにも生み出さないが、批評の影響を受けて実社会へと創作物が生まれることもある。そして、実践を前提としない理論は接地を失った記号がフワフワ漂うだけになってしまう。批評を目的とした批評はしません。最終、米津玄師とかに読まれるといいな。
政治をするヒト
実践の最たるものは実社会の構造それ自体の維持・変革を目的とした政治活動だろう。私個人としては創作はあれもこれもといえるけど、政治は二者択一のどちらかを決断しなければいけないという点でよりリアルな理論が求められるため、政治か創作かでいえば政治を軸に批評をしたい。
批評を書くヒト
ヒト一人が世界のすべてを記述しきることはできない。だから、これはとても傲慢なことかもしれないが、批評を書くヒトは、私が書いた文章に影響を受けて、その線で書いてほしい。まだ批評を書いていないヒトは、私の書いた文章に影響を受けて批評を書いてほしい。私自身が拡張された気になるから。冗談はともかくとしても、やっぱり、業界内視聴率が高い番組でありたい。
批評の戦略
劇作家として批評の対象、というよりも戯作家として批評の戦略を明確にしたい。対象は語りうるものすべてだが、その語り口や、着目の仕方に個性を、比較的優位性を出していきたい。
ねじれの位置
Aでも反Aでもない、その軸上にないものを出してくることによって、AかAでないかという軸自体をズらしたい。広義の脱構築ってことなんスかね。
例えば:
- 東京ー京阪神 都会ー地方 に対する名古屋
- 東洋ー西洋 に対する「日本(日出ずる処)からみればハワイ以外全部 Abendland(日没する処)」
- 閉鎖系ー開放系 に対する 低エントロピー系
異化効果(Glitch主義)
私にとって批評とは物事について違った見方を提供することによって、ヒトの価値観や世界観をよりいい感じにして、社会をよりいい感じにすることを目的とするものだ。だから、敢えて、批評の対象とは距離をとらなければいけない。対象に対する没入ではなく、反省(reflection)が働くための距離をとる。私も含めてヒトは自分がいまなにをやっているのか理解していない。冷静になってみれば、文化はすべて意味不明な異常行動であり、小説はウソ八百を延々書き連ねているし、ダンスは音に合わせて奇妙な動きをしているだけだし、ボイパも口で出ない音をわざわざ口で出している。異常だ。社会的に認められていることと認められていないことの線引きはかなり恣意的で歴史的で意味不明なものだ。そのありえなさを鮮やかに剔抉すること、目からウロコを落とさせることこそ私が批評に求めることだ。だから、ブレヒトの異化効果を念頭に置いて書く。現実の外部からのキラキラを現実にもたらすことをしたい。
工学主義
私にとって批評は目的か手段かで言えば目的だが、外部への明確な目的のない事業は腐る。非営利団体より営利企業のほうがよい仕事ができたりする。だから、批評は狙いを定めて効果を最大化するように書く。そういった意味においては、私の書く文章は文学というよりも工学的であるだろう。
加えて、工学は物理的な対象をコントロールして、人間の都合の良いように働かせるための学問であるが、人間の意識と没関係にある物理対象を明確な目的意識でもって対峙するという点で、ものすごくリアルな学問である。観測者側の価値観の変化によって結果が変わることのないという「客観性」があるという意味においてむしろ批評を拒むものともいえるかもしれない。しかし、そういった「客観性」「ガチness」こそ揺るがぬ批評がベースにすべき地盤であると私は考える。
社会は生産力と生産関係の発展や矛盾によって進化するという、唯物論的な見方はむしろ、プラットフォームや商品流通過程こそが流通されるものの内容を規定する現代のプラットフォーム資本主義・グローバル資本主義を解析する重要な道具となるだろう。
ガチ主義
エマニュエル・トッドはGDPは誤魔化しやすいが、乳幼児死亡率は誤魔化せない、という視点からソビエト連邦の崩壊を予見した。これに倣って、粉飾されやすい言説とされにくい言説、粉飾するモチベがある言説とモチベのない言説、先入見が入り込みやすい言説と入り込みにくい言説を峻別していきたい。客観性の基準といってもいい。
誰かの苦しみはガチだが、その解決策はガチではない。
家の床面積が広いのはガチだが、家の内装がおしゃれなのはガチではない。
地域の祭りが町内会で継承されているのはガチだが、ある地域の文化のあるなしはガチではない。
生産はガチだが、消費はガチではない。
BtoBはガチだが、BtoCはガチではない。
しょうもないとされていることはガチだが、クールだとされていることはガチではない。
裏方はガチだが、主役はガチではない。
実践はガチだが、理論はガチではない。
現場はガチだが、会議室はガチではない。
二次産業はガチだが、三次産業はガチではない。
製品はガチだが、広告はガチではない。
物質はガチだが、情報はガチではない。
二元論
二元論は確かに乱暴な議論の仕方だ。しかし、人間はあるものとそれ以外を区別することによって世界を認識しているから、二元論は人間や記号にとって本質的なものの見方だ。それが絶対のものだとは思わないし、区別の仕方それ自体が恣意的であることの疑いは晴れることがないが、二元論に従った文章は要旨がはっきりするし、二元の矛盾こそが文章を前進させる原動力となる。原始的だが、射程と使い道の広いパワフルな道具でゴリゴリ解釈していきたい。
PDCAサイクル早回し
どうせ、ちゃんとした文章は書けないし、私にそれは求められていないし、読めなきゃAIにでも要約してもらえればいいのだから、とにかくいい感じの思いつきがあれば世に問うてみて、反響は確認しつつ、バシバシ上手い批評家になっていければいいかなと思っている。
アイデア出し、ブレインストーミングのために書いているから、本質でない細かい事項はAIにやってもらうのが良かろう。
批評の文体
文体によってかける文章の形態は変わってくる。堅牢な構造をもった文章は深くまで掘れるが、書きづらいし、そもそも書くのがめんどくさくなってしまう。いまの私に文章能力があまりないことは明白な事実であるから、まずは雑な文章からleanに始めて、徐々に堅牢な文体に移行していきたい。
私は何についてでも書きたいから、ワークマンのように安くて、ラフで、破れにくい、しっかりした、これでええやん式の、文体を身につけたい。そして、ガチな文章を書きたい。
文体に対するフェティッシュはあるけども、それを身につけるのは今ではないし、そのフェティッシュの故にあるタイプの事柄についてしか書けないのであれば、本末転倒だ。
さらにいえば、私小説的な文体というのがある、自分自身の半径10mくらいの物事を、日常を慈しむような文体のことだ。これを私は意識的に退けるか、その文体を身につけるとしても、そのことを明白に意識した上で書きたい。ややもすれば、そのような文体は無条件の現状肯定となりかねないし、ある種のナルシシズムを呼び込みかねないからだ。リアルな自画像から、虚偽の自分自身への思い上がりを守るために書くものの自由度を下げたくない。もちろん、すばらしいエッセイは日常のちょっとした出来事にノイズを見出し、個別具体的な物事から普遍的真理を創造するものである。しかし、私はいまだその域に到達していないと私自身を見る。
カフェで読まれない文章、むしろ工場で読まれて実践されるような、この世の取り扱い説明書のようなものを書きたい。
漢文を意識して書く。漢語は陰陽じゃないけれど、横文字に比べて二元論がわかりやすい。そもそも、日本語の書き言葉は漢文のスピンオフから始まったのであるから、翻訳調の文章よりも文語文のほうが日本語の古層に眠った力を、つまり言語本来の論理構成能力を活かせるのではないだろうか。小手先ではなくて、日本語の足腰を活用しようということだ。さらに、東アジアの他国の経済力が向上するとともに、東アジアの一国としての日本という側面が目立つようになってきた。東アジアの共通言語は漢籍の素養。孔孟や老荘の枠組みで我々がなんであるか記述できたら大きな意味があるのではないか。
結局、最終、よんでわかればそれでええねん。必要十分じゃ。
批評の舞台
メディアのこと。いまのところは文学フリマに出す紙媒体と、よめばわかるくんのwebサイトでの公開しか考えていない。web媒体にすると年数回ではなくその場で反響が(帰ってくるかも)しれないから、PDCAサイクルを早く回すアジャイル批評開発にはうってつけだ。